2015/11/17

「メンタリング・インタビュー」 ダンクソフト「星野晃一郎」社長編 第一話

メンタリング・インタビュー

去る10月29日、北海道別海町にて、「メンタリング・インタビュー ダンクソフト 星野晃一郎社長 編」を実施させて頂くことができました。「コスモピア 田子みどり社長」「サイボウズ/ダンクソフト 中村龍太さん」に続く、第三回です。今回から3回に渡り、そのインタビューの記録をレポートします。

 

2011年4月10日。初めてお会いしたのは、震災後まだ1か月の石巻に向かう車中だった。社長にして金髪。その時からずっと「ダンクソフト」さんの動きや星野さんの「リーダーシップ」にとても興味をもちご一緒させて頂いてきた。というより、ずっと疑問ばかりで、疑問の雪だるまになりそうなくらい、不思議な活動をするダンクソフトさんであり、星野さん。

また、東日本大震災という未曽有の経験で、私達は価値観を大きく変え、パラダイムシフトを余儀なくされた。あのタイミングで星野さんと出会ったことは、私自身の人生にとても大きな影響を受けたと思っている。私自身の独立も然りである。

幸い、独立以来私自身にも時間の自由度が増した分、星野さんやダンクさんの活動に、時に、近いところでご一緒させて頂く機会が増えた。折々に、少しずついろんなことが繋がって、なんとなくこんな感じかもと思い始めたこのタイミングで、念願であった「メンタリング・インタビュー」の機会を頂いた。「あまり自分のことを話すことがない」とおっしゃる星野さんへの「根掘り葉掘り」がやっと実現したのだ。

インタビューに当たり、改めてこの5年間の出来事を辿り、多様な顔を持つ星野さんのリーダー像について仮説を立ててみた。数多くの星野さんに対する私の印象を、あえてぐっとまとめると下記の2つになる。

「異質なものや人に対してとてもオープンである。そして、受け入れてくれるという安心感を与える。そして、『受け入れて見ていますよ』という信号を送り続けてくれる人。」

「考えておられることは、かなり極端(ソニーCSL流にいうと「think extreme」)なのに、話し方や表現の仕方が大変ソフトである。リーダーとしては「ゆるい」ように見える。」

「極端なことを、ゆるーいリーダーシップでやってみせる」星野さんに対し、この際「そのこころ」をどうしても紐解いてみたかったのである。

場所は、北海道別海町。総務省テレワーク推進事業による「地方創生」が進む、まさにその現場である。

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「小さい頃ってどんなお子さんだったんですか?」

ぜひ星野さんに聞きたかったことの一つである。

東京日本橋生まれ。星野さん曰く「ぼーっとした子だったんだよね。」しかも、あまり記憶がないとの由。好きなこと以外しない子供だったそうで、親からは「やればできる子」と言われた。「やればできる。」そして、やりたいことをやれる環境を作ってくれる。だけど、何にも言わない。ほおっておかれるから、「自分で伸びる。」

やはり、育った環境の力は大きい。

母方の伯母がアメリカ人と結婚、身近に「カールおじさん」がいた。そういえば星野さんは「Robert」である。母、妹、伯母と女性が強く、しかもオープンな家庭環境。母方の長姉が印刷会社を経営しているのを、何となく大変そうだなとみていた。そんな星野少年は、身体を動かすこと、好きな本を読むこと、英語、そして後述する従兄(8歳年上でLAでIT会社を設立)の影響もあり、音楽を始める。人に習うより自分でとことん極める。器用じゃないから、いろんなことに手を出さず、「ひとつのことを深く掘り下げていく。」

「人に強制しない」「強制したところで、所詮、身にならない」ということを良くご存知である。プライベートはともかく、これを経営者として実践することは、そうはいっても簡単ではない。従業員や部下でありながら、トップダウンでなく「やりたい人がやればいい。最初にやった人を見てやる人が増えていけばいい」と言い切れるには、ご自身が正しいと信じる針路への確信と、根っから「人を信じる」という才能(私は才能だと思う)が必要で、それはきっと親に信じてもらった(ある意味で「育ちの良さ」といえるであろう)星野さんの原体験が大きいように思われる。

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音楽は、28歳までやった。音楽でプロになりたかった。「やればできる」と育てられた星野青年にも初めての挫折が訪れる。「音楽では食べていけない。」その頃、アメリカにいた従兄からコンピュータの可能性を耳にする。そして、星野さんが働く塾に英語を習いに来ていたエンジニアにパソコンを借り、その面白さにのめり込んでいく。音楽のように、目に見えないものを作り上げていくコンピュータは、やはり音楽同様、自分の世界が作れる、そんな夢中になれるものに、彼は再び出会ったのである。BASICで音符を起こすプログラムを作り始めた。

そして、縁あってデュアルシステム社(現在のダンクソフト)に入社。最初に携わったプロジェクトは前社長の得意分野である制御系のソフト開発。そのプロジェクトに入社間もない星野さんは無謀にもリーダーとしてアサインされ、嵌りに嵌る。その時の経験、その後のプロジェクト経験から、IT企業やソフト開発者の働き方について、疑問を持ったという。一方で、当時の下請けや孫請けの仕事ではなく、「自分の作品を作りたい」という音楽青年の星野さんの想いが「自社ソフト開発」という仕事の変化にもつながっていく。

そして、入社3年目にして前社長の急逝。遺族に懇願され、会社を引き継ぐ。当時30歳になったばかりの自称「人見知り」の星野社長は、ご自身の年齢や立ち位置を考え、何が必要かを考えられたのだろう、人脈を築くべくニュービジネス協議会(現在の東京NBC)の門をたたく。

・・・to be continued. (第二話につづく)

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